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雑談

ただの作り話に心が動く理由 ― Webディレクターが考える「感情移入」の本当の意味

wasabi
wasabi
更新日:2025.08.12 10:38

「でもそれ、ただの作り話でしょ?」
流行りの映画が超泣けると聞いて、そう小馬鹿にしたことがあった。
でも気がつけば、自分も映画館で泣いてしまった。
家で何気なくみたアニメでも、たびたび泣いてしまう。
映画や漫画は、ただのフィクション、他人の想像でしかないはずなのに、なぜ人は心を動かされるのでしょうか——

こんにちは。ディズニー映画『リメンバー・ミー』の冒頭シーンで号泣する30代男性、wasabiです。
今回はこの疑問について、僕自身の経験を交えながら考えてみたいと思います。

「映画や漫画は、ただのフィクションでしかないのに、なぜ人は心を動かされるか——」

突然ですが、僕は昔、ブライダル業界で映像の仕事をしていました。
お客様にとって人生に1回しかない瞬間を、映像として形にする仕事です。
笑いも涙も、セリフも表情も全部“リアル”なのに、編集をしている自分の目は意外と冷静で、むしろ「どこで泣かせるか」を分析しながら作っていました。

その点で考えると、人の心が動くかどうかは「リアル」か「創作物」かでは決まらないのかもしれません。

今はWebディレクターという立場で、ジャンルは違えど、人の心を動かすことを仕事にしています。情報の配置、トーン、コピー、デザイン、導線…あらゆる選択が、見る人の気持ちに影響します。

“感情のスイッチにどうやったら触れられるか”
“ひとはどこに心が動くのか”
そんな問いを日々、無意識に考えています。
もしかしたら僕は、誰かの“感情のスイッチ”に関わる仕事がしたいのかもしれません。

誰かの物語の中に、自分を見つけてしまう

映画の登場人物が、自分の昔の片思いの人と同じ目をしていたとき。
漫画の主人公が、言えなかったあの言葉を代わりに叫んでくれたとき。
物語は、他人の妄想でできているけれど、
その中に“自分”がひょこっと現れることがあります。

感情移入っていうのは、
「感情を移す」というより、「感情を思い出す」ことなんじゃないかと思います。

誰かの夢を借りながら、自分の記憶をもう一度なぞっている。
もしくは絶対に叶うはずもないとあの日捨てた憧れの姿を、登場人物を通して疑似体験しているのかもしれない——

つまりフィクションが刺さる瞬間って、他人の物語を楽しんでるようでいて、
実は自分の人生のどこかに、そっと触れてしまったときなのではないでしょうか。

フィクションは「記憶を呼び起こす装置」

忘れられないのは、ある夜ふと見た短編アニメ。
SNSで偶然流れてきたリンクを何気なくクリックしただけで、
有名作でもなく、声優も知らない人ばかりでした。
再生時間も15分ほど。軽い気持ちで見始めました。

物語は、田舎町の高校生が、
祖母の葬儀をきっかけに久しぶりに実家へ帰るというもの。
淡々とした日常描写が続き、特に盛り上がりもなく、
ただ古い家や仏間の風景が描かれていました。

最後のシーン、主人公が縁側に腰掛けて、
祖母が使っていた湯飲みを手に取る。
その瞬間、なぜだか急に涙が込み上がってきた。
自分の家はアニメとは全く違う作りだったのに。

たぶん、湯飲みを持つ手の角度や湯気の立ち方が、幼い頃に遊びに行った親戚の家の記憶と重なったのだと思います。
そこから一気に、自分が忘れていた匂いや音、その家の空気感が蘇ってきました。

グッときたのは、アニメの登場人物のためではなく、
自分の中に眠っていた、誰にも語ったことのない“懐かしさ”のためだったのだと思います。
そのとき、「フィクションは自分の記憶を呼び起こす装置なんだ」と実感しました。

フィクションは、自分に正直になれる場所

現実の中では泣けなかったことも、映画の中なら自然と涙が出てしまう。
漫画を読んでいたはずなのに、気づけば自分の記憶に泣いていた。

フィクションの世界では、
「恥ずかしさ」や「タイミング」や「言葉を選ぶ難しさ」がない。
感情に正直でいても、誰にも迷惑をかけない。
そこが、フィクションのすごいところだと思います。

最近では「涙活」という言葉もよく聞きます。
意識的に泣けるコンテンツに触れて、感情を解放するというアクション。
笑われることもあるけど、人は案外“泣く場所”を探しているのかもしれません。
映画館や漫画の世界が、その避難所になることだってあっていいと思います。

僕が映像を作るときも、Webを設計するときも、
伝えたいことは実はシンプルで、
「あなたの感情にそっと触れられたらいいな」という気持ちに尽きます。

余白を残すことで、人は自分を見つける

感情に“余白”を残すことは、僕にとって大事なルールです。
説明しすぎない、詰め込みすぎない、正解を与えすぎない。
そうすると、人は自然と自分の感情を代入してくれます。

ブライダルでも、Webでも、それはきっと同じだと思います。
「見せる」より「感じてもらう」ことの方が、よっぽど強い。

誰かの物語に自分を重ねて泣いた日が、
実は自分の人生の大切な一部を理解するきっかけだった、
そんなこともあるのだと信じています。

感動は「自分で見つけた」ときに強くなる

誰かを感動させたいとき、
一番の近道は「全部を説明しないこと」だと思っています。

たとえば映画のラストシーンで、
主人公がただ静かに空を見上げる。
セリフもBGMもなく、ただ風の音だけが響いている。
そのとき観客は、登場人物が何を思っているのか、
自分の経験や価値観をもとに勝手に補完し始めます。

この“補完”の瞬間こそ、感情が最も揺れるタイミング。
なぜなら「自分で見つけた感情」は、
与えられた感情よりも、ずっと深くて長く残る。

逆に、「泣いてください!」と言わんばかりに
セリフを詰め込み、音楽を盛り上げ、
涙を誘う映像を連発してしまうと、
受け手は「押しつけられた」と感じて、
心のシャッターを閉めてしまいます。

ブライダル映像を作っていた頃も、
泣かせるシーンを“詰めすぎない”ことを意識しました。
例えば、新郎新婦の手紙の中で、
あえて感情が高まる部分のBGMを消してみる。
すると、会場の空気感や拍手の音、
本人の息づかいまでが際立って、
その瞬間だけは本当に“その場にいる感覚”になる。

僕はこの“最後の1ミリを残す”という設計を大切にしています。
その1ミリを受け手が自分で埋めたとき、そこに生まれる感情は“その人だけのもの”になる。
そしてその感情こそが、後から何度も思い出されるような、本当の意味での「感動」なのだと思います。

まとめ

作り話って、誰かの想像でしかないはずなのに、
どうしてこんなにも、心が動くのでしょうか——

たぶんそれは、“誰かの物語”の中に、
“自分”が映る瞬間があるから。
そこに自分を感じるからだと思います。

そして僕は、これからもそんな瞬間を仕掛ける側として、
誰かの「感じる」をそっと応援していけたらと思っています。

誰かのスイッチを押すような、小さな設計を、今日もどこかで仕込んでいきたいと思います。

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